昨年秋からNHKで『マッサン』が放映され、ウィスキーやマッサンのモデル竹鶴政孝に対する関心が高まっている。日本にウィスキーをもたらした男はどのような人物だったのか、愛妻リタとの暮らしはどのようなものだったのか。彼らはいかにして、日本のウィスキーの歴史をつくりあげてきたのか――等、興味は尽きない。
今年に入り、竹鶴政孝氏の孫にあたる竹鶴孝太郎氏にお話を伺う機会に恵まれた。すでに本ブログのFacebookページでは先行して投稿していたが、マッサンも最終回を迎えた今、いくつかのエピソードをひとつの記事で紹介しておこう。
(マッサンのモデル=政孝、エリーのモデル=リタ)
政孝は非常に個性的な男性でした。「香りは経験だ、味覚は経験だ」と言われました。特に「若い時の経験は非常に重要だから、今ここにいる自分を最も贅沢だと思え」とも言われました。というのも、余市の家ではいろんな野菜や果物を育てていました。畑には政孝の気に入ったブドウの苗や梨の苗(フランスやアメリカから持ってきた)が植えられていました。野菜や果物は土から、木からもいで味わったんですね。美味しくなる瞬間やまだそうでないとき、日々味わうことができました。その頃、「香りがお前の記憶に残る、このことが最も贅沢だ」と政孝に言われました。当時はわからなかったし、しばらく忘れていました。
このことは、大人になってから思い出されました。ところが、どこにいってもあの時の果物やトマトの香りがないんですよね。土から採るようなイチゴの香りも、もうない。ただ、その時の味や香りは、たしかに記憶に残っているんです。
祖父が私によく言ったのは「自分の名前を書くとき、横文字、筆文字、これはしっかり書きなさい」ということでした。また、もうひとつよく言われたのは「写真を撮られるときにはポーズを決めなさい」ということでした。政孝の写真は比較的ポーズが決まってるんですよ。自分の姿を撮られる時のカタチをちゃんと決めときなさい、と言いたかったのだと思います。
彼が生まれて120年経ってますが、今でも皆さんに見られていることを思えば、大事なことだったのだなぁと感じます。
彼は15の時には竹原(広島)に居て英語で文通をしていました。いずれは世界でという気概があったのかもしれません。その後恵まれた就職をして、摂津酒造の阿部喜兵衛さんが竹原に「政孝を留学させる。実家に戻って造り酒屋を継ぐのは諦めてくれ」と説得しているんです。その時、摂津酒造のお嬢さんと結婚するとかしないとか、そういう話があったというのは私も聞いています。
そして、しばらくすると、スコットランドに居る政孝から「結婚するけどいいか」、という許諾願いの手紙が竹原(広島の実家)と、摂津酒造(当時勤務)に届いた。でも考えてみるとその当時、手紙が来るだけで3ヶ月かかってるわけです。その間にどんどん進んでるわけです。だからいいかって言ったって承諾も何もないようなもんで、手紙が戻ってダメだと言った頃にはもう決めてるみたいな感じなわけです(笑)
だから阿部さんは、スコットランドまで行ってリタを見に行ったんですね。非常に良いお嫁さん候補で、いい人だ、ということで政孝の両親に「よい人だから認めてやって欲しい」という手紙を出してるんです。そして2人は日本に帰ってくるんです。
だから阿部さんはTVで描かれる(西川きよしが演じた)よりももっと、とても良い人で、政孝のためにいろいろやってくれた人でした。お嬢さんもその後養子を迎えられているんですが、実はあの後、帝塚山学院という学校にウチのおばあさん(リタ)は就職しているんですね。
最近わかったんですが、この帝塚山学院の理事に摂津酒造の阿部さんが居るわけです。ウチのじいさんはウィスキーづくりやらないと言われて摂津酒造を飛び出しちゃったわけですが、けれども阿部さんは気にして帝塚山学院で英語とピアノを教えたらどうかとリタに紹介してくれたんだと思います。
摂津酒造をやめて鳥井さん(ドラマでは「鴨居の大将」)のところ(壽屋)にいくというのはかなり抵抗があったみたいです。やはり競合に当たりますので。何度か打診があったが、ウィスキーを作れるんであればそこに行こうと思ったみたいですね。
実は、政孝は摂津酒造で赤玉ポートワインを作ってました。摂津が樽で壽屋に納品して、壽屋がボトリングして販売してました。ウチの祖父はあらゆる会社のブランドを手がけてたみたいです。意外とウィスキーだけでなく、ワインも赤玉ポートワインのようなものも広く手がけてたようです。
イギリスに行った時も、ボルドーやコニャックとかあっちの方にも足を伸ばしていたみたいです。ウィスキーを仕込むとき以外は、ヨーロッパも放浪してあちこち見ていたようです。
実は政孝の兄、可文(よしぶみ)が北海道の北炭という会社で常務をやっていたため、北海道の情報があったんです。テレビではいきなり行く感じだが、実際にはツテがないと行かなかっただろうと思いますね。
当時北海道に行くには東京からでも汽車と連絡船で2日半かかったぐらい遠い地だったんです。だから大阪から行こうと思ったきっかけは、お兄ちゃんを頼った面もあると思います。
北海道でいきなりウィスキーを作る、これはどういうことだったろうと想像します。当時、お酒は日本酒で、ビールだって贅沢品、ウィスキーになるとこれは何?という感じ。北海道で麦やピートが採れるからと言って、ピンとこないですよね。
私が生まれた昭和28年当時、まだ馬ソリが走っていました。雪が深く、子供の頃ですから胸の位置まで雪がありました。遠くからシャンシャンシャンと鈴の音が聞こえました。もくもくもくもく走ってくるんです。それが道産子の馬で馬ソリを引っ張ってくるんですけど、それによく乗っけてもらいました。
戦後8年経ってましたけど、まだ木炭車ってのが走っていまして、要するにガソリンがなくて薪でバスを走らせてました。または馬を前においてエンジンのない車を引っ張るんですね。それに乗っけてもらうという時代でした。
これを東京や他の地域の人にいうと、お前はどっから来たのと言われるんですけど(笑)、事実なんですよね。そういう環境でウィスキーを作る夢を語った。だれもが「この人おかしいんじゃないか」という反応だったろうと思います。
ウチはよく家に人が来ていました。麻雀大会をやったり、旅館のおやじと将棋を指したり、よくやってました。祖父が考えていたのは、人とどう交流を持って、自分のやりたいことを伝えていくかということでした。
よく言っていたのが「親をつかまえないと、その子供を自分の会社には勤めさせない」と。やっぱり彼も(北海道において)異邦人だし、その嫁さんはもっと異邦人なんですよね。だから、北海道の大地において最初にウィスキーを手がけるということは、人をどう集めるか、ということでもあったわけです。
ご覧になった方はわかると思いますが、ハッキリ言って余市の工場は余剰な投資ですよね。目指したのは本物なんですけど、やっぱり形から入らないと本物にはなれないということだったのかなと思います。(美しいキルン塔やスコットランド風の建物の数々は)工場を作るにあたっては不必要な投資だと思いますが、政孝自身も「こういうものを作るんだ」というのが自分でも確認できたんだと思います。
また、80年経ってますけど、今でも愛される建物になっているのかと思います。それはもしかすると、熟成させるウィスキーを作るのと同じ考えで、建物についても大きなスパンで考えていたのかもしれません。
彼は300年続く造り酒屋の子供ですけど、よく私に言われたのは「ウィスキーで100年とか150年とかは大して新しくもなんともないんだ。そんなの自慢するもんじゃない。やっぱり酒ってのは300年を超えないと1人前じゃない」ということでした。伝統ある造り酒屋の家に生まれたからこそ、彼自身“伝統”を作っていこうとした。それが余市工場に現れているのではないかと思います。
リタはいつも正装して家の中にいました。リビングに居るときと個室に居るときを分けていました。個室に居るときはリラックスした格好でいたと思いますが、家族と会うときは服装は正装に近い状態でした。化粧もして、イヤリングなどアクセサリもつけて、靴も履いて、というのが日常でした。ですから、私のおふくろは結構苦労していました(笑)「朝早いのにお母さんはいつも口紅をつけて正装しているから困る」と言っていました。
余市で(しょっちゅう人を招いて)麻雀をしているとき、おばあさんを紹介するという意味もありました。余市で、白人で金髪の女性に話しかける機会ってなかなかないと思うんです。家に招いて彼女が出てくればしゃべる、ということがあって、やはりおじいさんはリタと結婚したことで自分の生活も含めてリズムが変わったんだろうなと思います。
――"竹鶴家”ってきっとかなり変わってらしたんでしょうね?
よくわかんないんですよね。あとで結婚して気がつくことが多かったです。テーブルマナーはナイフとフォークが先だったんですよ。箸は後で憶えました。朝食べるものが未だにご飯じゃななく、トーストとミルクティーとスクランブルエッグでした。旅館に行って初めて日本食を食べました。
――竹鶴家では当時からその朝食が当たり前でしたか?
ええ。だから、日本食は朝旅館でしか食べたことが無いです。結婚してから嫁さんが朝つくってくれたんですが、いやちょっとそれは食べられないわ・・と言ってパンにしてもらいました。気取って言ってるんじゃなくて、そういう家で育ったんですよね。
――(日本人である)お母様はだいぶ苦労なさったんでは?
ウチのおふくろはパン食なんですよ。これはいきさつがあるんですけど、おふくろは全く料理ができずに嫁入りしたんです。だからおばあさん(リタ)が全部料理を教えたんです。お米の炊き方から、みそ汁の作り方から、ローストビーフとかそういうもの全部。おふくろはそれをそのまま真似ました。クリスマスはローストビーフとクリスマスプディングなんです。お正月はおせちなんだけど、だいたいもらい物が多いわけですね。
――やっぱり当時としては変わったお家だったんですね。
ええ。ドラマの中でもウィスキートディってありますけど、あれ僕、飲まされましたよ。風邪引いたら風呂は入れって言われるんですよね。それからあれを飲まされるんです。アルコールは飛ばすんですけどね。
――家ではウィスキーを飲まれてましたか?
祖父、祖母、おやじは飲んでましたね。おふくろは飲まなかったですが、3人が飲んでました。
――ウィスキーは食事中でしたか?
いえいえ、おじいさんはお風呂あがりはビールなんですよ。体を温めてビールで、枝豆で。食事の時は日本酒熱燗でした。彼は和食好きでした。食後は自家製のウィスキーなんです。自家製ってニッカウィスキーなんですけどね(笑)。飲み方は氷3つ入れて8オンスのタンブラーで、水入れて飲むんですけどね、彼いわく「量を沢山飲む人は、水割りとかで適度に薄めて飲むほうが体に良い。おいしく飲むならストレート、量を飲むなら水割り」という話をしていました。いつもハイニッカかノースランドの丸びんか。僕は生意気に「なんでそんな安物ばっかり飲むんだ」と訊いたんです。すると「自分は本物のウィスキーを安くみんなに提供することを目指してきたから、自分が飲まなきゃ誰が飲むんだ」と言いました。いつもそういうことを何気なく言うんですが、「高いものはおいしいものに決まってる。安くて美味いのが本物なんだ」とも言っていました。
死にそうになった時でも病院でウィスキーを飲んでました。これは医者が「あなたに一番効く薬がウィスキーだったらしょうがない」と認めたんです。これはかつてないんです。これは後々おやじから聞きましたが、医者が「解剖させてくれ」といったそうです。結果はどこも悪くなかったようです。内蔵は悪くなかったようです。
――ドラマ『マッサン』が人気ですが、実際の政孝氏との違いは?
ドラマより気骨があってハッキリとした人でした。だから、僕が思うのは、鳥井さんとは絶対合わなかったと思います。だって生意気じゃないですか。よく鳥井さんは我慢したと思います(笑)真ん中がなく、白黒はっきりしてました。
それから、おじいさんは人ったらしだったと思います。ジジ殺しババ殺しで、お金集めるのが上手いわけです。ただ、嘘みたいな話を実現させる力があったと思います。北海道でウィスキー作るといったときは、みんな「そんな嘘みたいな話・・・」と思ってたと思いますよ。だからジュースでごまかして、ウィスキー工場を作ったんだろと思いますよ(笑)
お孫さんでないとわからない身近な存在としての政孝氏がよく伝わってくるお話だった。
ドラマをきっかけとして多くの方々が、ウィスキーという素晴らしい酒の魅力を追求したマッサンと、彼が惚れ込んだウィスキーそのものに興味をもつことはとても嬉しいことだ。
そういった方へ、この記事が少しでも役立てば幸いだ。
今年に入り、竹鶴政孝氏の孫にあたる竹鶴孝太郎氏にお話を伺う機会に恵まれた。すでに本ブログのFacebookページでは先行して投稿していたが、マッサンも最終回を迎えた今、いくつかのエピソードをひとつの記事で紹介しておこう。
(マッサンのモデル=政孝、エリーのモデル=リタ)
竹鶴孝太郎氏にお話をうかがった |
◆ 政孝の言葉
香りは経験だ、味覚は経験だ
政孝は非常に個性的な男性でした。「香りは経験だ、味覚は経験だ」と言われました。特に「若い時の経験は非常に重要だから、今ここにいる自分を最も贅沢だと思え」とも言われました。というのも、余市の家ではいろんな野菜や果物を育てていました。畑には政孝の気に入ったブドウの苗や梨の苗(フランスやアメリカから持ってきた)が植えられていました。野菜や果物は土から、木からもいで味わったんですね。美味しくなる瞬間やまだそうでないとき、日々味わうことができました。その頃、「香りがお前の記憶に残る、このことが最も贅沢だ」と政孝に言われました。当時はわからなかったし、しばらく忘れていました。
このことは、大人になってから思い出されました。ところが、どこにいってもあの時の果物やトマトの香りがないんですよね。土から採るようなイチゴの香りも、もうない。ただ、その時の味や香りは、たしかに記憶に残っているんです。
写真を撮られるときは・・・
祖父が私によく言ったのは「自分の名前を書くとき、横文字、筆文字、これはしっかり書きなさい」ということでした。また、もうひとつよく言われたのは「写真を撮られるときにはポーズを決めなさい」ということでした。政孝の写真は比較的ポーズが決まってるんですよ。自分の姿を撮られる時のカタチをちゃんと決めときなさい、と言いたかったのだと思います。
彼が生まれて120年経ってますが、今でも皆さんに見られていることを思えば、大事なことだったのだなぁと感じます。
余市に飾ってあった政孝氏の写真(ウィスキーテイスティング中) さすが、ポーズが決まってる。 |
◆ 北海道以前、リタとの結婚
マッサンを助けた阿部さん
彼は15の時には竹原(広島)に居て英語で文通をしていました。いずれは世界でという気概があったのかもしれません。その後恵まれた就職をして、摂津酒造の阿部喜兵衛さんが竹原に「政孝を留学させる。実家に戻って造り酒屋を継ぐのは諦めてくれ」と説得しているんです。その時、摂津酒造のお嬢さんと結婚するとかしないとか、そういう話があったというのは私も聞いています。
そして、しばらくすると、スコットランドに居る政孝から「結婚するけどいいか」、という許諾願いの手紙が竹原(広島の実家)と、摂津酒造(当時勤務)に届いた。でも考えてみるとその当時、手紙が来るだけで3ヶ月かかってるわけです。その間にどんどん進んでるわけです。だからいいかって言ったって承諾も何もないようなもんで、手紙が戻ってダメだと言った頃にはもう決めてるみたいな感じなわけです(笑)
だから阿部さんは、スコットランドまで行ってリタを見に行ったんですね。非常に良いお嫁さん候補で、いい人だ、ということで政孝の両親に「よい人だから認めてやって欲しい」という手紙を出してるんです。そして2人は日本に帰ってくるんです。
だから阿部さんはTVで描かれる(西川きよしが演じた)よりももっと、とても良い人で、政孝のためにいろいろやってくれた人でした。お嬢さんもその後養子を迎えられているんですが、実はあの後、帝塚山学院という学校にウチのおばあさん(リタ)は就職しているんですね。
最近わかったんですが、この帝塚山学院の理事に摂津酒造の阿部さんが居るわけです。ウチのじいさんはウィスキーづくりやらないと言われて摂津酒造を飛び出しちゃったわけですが、けれども阿部さんは気にして帝塚山学院で英語とピアノを教えたらどうかとリタに紹介してくれたんだと思います。
政孝氏のパスポート実物。余市ウィスキー博物館にて。 |
ウィスキーを仕込むとき以外は・・・
摂津酒造をやめて鳥井さん(ドラマでは「鴨居の大将」)のところ(壽屋)にいくというのはかなり抵抗があったみたいです。やはり競合に当たりますので。何度か打診があったが、ウィスキーを作れるんであればそこに行こうと思ったみたいですね。
実は、政孝は摂津酒造で赤玉ポートワインを作ってました。摂津が樽で壽屋に納品して、壽屋がボトリングして販売してました。ウチの祖父はあらゆる会社のブランドを手がけてたみたいです。意外とウィスキーだけでなく、ワインも赤玉ポートワインのようなものも広く手がけてたようです。
イギリスに行った時も、ボルドーやコニャックとかあっちの方にも足を伸ばしていたみたいです。ウィスキーを仕込むとき以外は、ヨーロッパも放浪してあちこち見ていたようです。
◆ 北海道へ
実は北海道を目指したのは・・・
実は政孝の兄、可文(よしぶみ)が北海道の北炭という会社で常務をやっていたため、北海道の情報があったんです。テレビではいきなり行く感じだが、実際にはツテがないと行かなかっただろうと思いますね。
当時北海道に行くには東京からでも汽車と連絡船で2日半かかったぐらい遠い地だったんです。だから大阪から行こうと思ったきっかけは、お兄ちゃんを頼った面もあると思います。
北の大地でウィスキーを作るという決意、その時代
北海道でいきなりウィスキーを作る、これはどういうことだったろうと想像します。当時、お酒は日本酒で、ビールだって贅沢品、ウィスキーになるとこれは何?という感じ。北海道で麦やピートが採れるからと言って、ピンとこないですよね。
私が生まれた昭和28年当時、まだ馬ソリが走っていました。雪が深く、子供の頃ですから胸の位置まで雪がありました。遠くからシャンシャンシャンと鈴の音が聞こえました。もくもくもくもく走ってくるんです。それが道産子の馬で馬ソリを引っ張ってくるんですけど、それによく乗っけてもらいました。
戦後8年経ってましたけど、まだ木炭車ってのが走っていまして、要するにガソリンがなくて薪でバスを走らせてました。または馬を前においてエンジンのない車を引っ張るんですね。それに乗っけてもらうという時代でした。
これを東京や他の地域の人にいうと、お前はどっから来たのと言われるんですけど(笑)、事実なんですよね。そういう環境でウィスキーを作る夢を語った。だれもが「この人おかしいんじゃないか」という反応だったろうと思います。
親をつかまえないと、その子供を自分の会社には勤めさせない
ウチはよく家に人が来ていました。麻雀大会をやったり、旅館のおやじと将棋を指したり、よくやってました。祖父が考えていたのは、人とどう交流を持って、自分のやりたいことを伝えていくかということでした。
よく言っていたのが「親をつかまえないと、その子供を自分の会社には勤めさせない」と。やっぱり彼も(北海道において)異邦人だし、その嫁さんはもっと異邦人なんですよね。だから、北海道の大地において最初にウィスキーを手がけるということは、人をどう集めるか、ということでもあったわけです。
余市工場はどこまで見据えていたか
ご覧になった方はわかると思いますが、ハッキリ言って余市の工場は余剰な投資ですよね。目指したのは本物なんですけど、やっぱり形から入らないと本物にはなれないということだったのかなと思います。(美しいキルン塔やスコットランド風の建物の数々は)工場を作るにあたっては不必要な投資だと思いますが、政孝自身も「こういうものを作るんだ」というのが自分でも確認できたんだと思います。
また、80年経ってますけど、今でも愛される建物になっているのかと思います。それはもしかすると、熟成させるウィスキーを作るのと同じ考えで、建物についても大きなスパンで考えていたのかもしれません。
美しい屋根の余市工場 |
彼は300年続く造り酒屋の子供ですけど、よく私に言われたのは「ウィスキーで100年とか150年とかは大して新しくもなんともないんだ。そんなの自慢するもんじゃない。やっぱり酒ってのは300年を超えないと1人前じゃない」ということでした。伝統ある造り酒屋の家に生まれたからこそ、彼自身“伝統”を作っていこうとした。それが余市工場に現れているのではないかと思います。
◆ くらし
リタはいつも・・・
リタはいつも正装して家の中にいました。リビングに居るときと個室に居るときを分けていました。個室に居るときはリラックスした格好でいたと思いますが、家族と会うときは服装は正装に近い状態でした。化粧もして、イヤリングなどアクセサリもつけて、靴も履いて、というのが日常でした。ですから、私のおふくろは結構苦労していました(笑)「朝早いのにお母さんはいつも口紅をつけて正装しているから困る」と言っていました。
旧竹鶴邸の窓から外を眺める |
政孝の生活リズム
余市で(しょっちゅう人を招いて)麻雀をしているとき、おばあさんを紹介するという意味もありました。余市で、白人で金髪の女性に話しかける機会ってなかなかないと思うんです。家に招いて彼女が出てくればしゃべる、ということがあって、やはりおじいさんはリタと結婚したことで自分の生活も含めてリズムが変わったんだろうなと思います。
「竹鶴家」のくらし
――"竹鶴家”ってきっとかなり変わってらしたんでしょうね?
よくわかんないんですよね。あとで結婚して気がつくことが多かったです。テーブルマナーはナイフとフォークが先だったんですよ。箸は後で憶えました。朝食べるものが未だにご飯じゃななく、トーストとミルクティーとスクランブルエッグでした。旅館に行って初めて日本食を食べました。
――竹鶴家では当時からその朝食が当たり前でしたか?
ええ。だから、日本食は朝旅館でしか食べたことが無いです。結婚してから嫁さんが朝つくってくれたんですが、いやちょっとそれは食べられないわ・・と言ってパンにしてもらいました。気取って言ってるんじゃなくて、そういう家で育ったんですよね。
――(日本人である)お母様はだいぶ苦労なさったんでは?
ウチのおふくろはパン食なんですよ。これはいきさつがあるんですけど、おふくろは全く料理ができずに嫁入りしたんです。だからおばあさん(リタ)が全部料理を教えたんです。お米の炊き方から、みそ汁の作り方から、ローストビーフとかそういうもの全部。おふくろはそれをそのまま真似ました。クリスマスはローストビーフとクリスマスプディングなんです。お正月はおせちなんだけど、だいたいもらい物が多いわけですね。
――やっぱり当時としては変わったお家だったんですね。
ええ。ドラマの中でもウィスキートディってありますけど、あれ僕、飲まされましたよ。風邪引いたら風呂は入れって言われるんですよね。それからあれを飲まされるんです。アルコールは飛ばすんですけどね。
自分が飲まなきゃ誰が飲むんだ
――家ではウィスキーを飲まれてましたか?
祖父、祖母、おやじは飲んでましたね。おふくろは飲まなかったですが、3人が飲んでました。
――ウィスキーは食事中でしたか?
いえいえ、おじいさんはお風呂あがりはビールなんですよ。体を温めてビールで、枝豆で。食事の時は日本酒熱燗でした。彼は和食好きでした。食後は自家製のウィスキーなんです。自家製ってニッカウィスキーなんですけどね(笑)。飲み方は氷3つ入れて8オンスのタンブラーで、水入れて飲むんですけどね、彼いわく「量を沢山飲む人は、水割りとかで適度に薄めて飲むほうが体に良い。おいしく飲むならストレート、量を飲むなら水割り」という話をしていました。いつもハイニッカかノースランドの丸びんか。僕は生意気に「なんでそんな安物ばっかり飲むんだ」と訊いたんです。すると「自分は本物のウィスキーを安くみんなに提供することを目指してきたから、自分が飲まなきゃ誰が飲むんだ」と言いました。いつもそういうことを何気なく言うんですが、「高いものはおいしいものに決まってる。安くて美味いのが本物なんだ」とも言っていました。
非公開の旧竹鶴邸での一枚。政孝氏の寝室にて。 |
最期まで・・・
死にそうになった時でも病院でウィスキーを飲んでました。これは医者が「あなたに一番効く薬がウィスキーだったらしょうがない」と認めたんです。これはかつてないんです。これは後々おやじから聞きましたが、医者が「解剖させてくれ」といったそうです。結果はどこも悪くなかったようです。内蔵は悪くなかったようです。
「記憶のなかのマッサン」
――ドラマ『マッサン』が人気ですが、実際の政孝氏との違いは?
ドラマより気骨があってハッキリとした人でした。だから、僕が思うのは、鳥井さんとは絶対合わなかったと思います。だって生意気じゃないですか。よく鳥井さんは我慢したと思います(笑)真ん中がなく、白黒はっきりしてました。
それから、おじいさんは人ったらしだったと思います。ジジ殺しババ殺しで、お金集めるのが上手いわけです。ただ、嘘みたいな話を実現させる力があったと思います。北海道でウィスキー作るといったときは、みんな「そんな嘘みたいな話・・・」と思ってたと思いますよ。だからジュースでごまかして、ウィスキー工場を作ったんだろと思いますよ(笑)
お孫さんでないとわからない身近な存在としての政孝氏がよく伝わってくるお話だった。
ドラマをきっかけとして多くの方々が、ウィスキーという素晴らしい酒の魅力を追求したマッサンと、彼が惚れ込んだウィスキーそのものに興味をもつことはとても嬉しいことだ。
そういった方へ、この記事が少しでも役立てば幸いだ。
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