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レポート:余市蒸溜所への訪問8 ~マイブレンドウィスキー・博物館・旅の終わり

連載した「余市蒸溜所への訪問レポート」は、一般非公開部分も含むニッカのウィスキー工場見学に加えて、竹鶴政孝とその妻リタとの暮らしの思い出を紹介し、終了した。ネット上で気楽に見られる蒸溜所レポートとしては、長文かつ写真枚数も豊富で、動画もありなので、情報量がトップクラスに多いレポートとなった。
しかし、当初想定より反響が良く、未紹介の写真もかなりの数があるため、さらに蒸溜所内の様子を追加でレポートする。


今回はニッカのご厚意により、通常余市蒸溜所では開催されていない「マイブレンドウィスキー体験」を体験できた(仙台の宮城峡蒸溜所では「マイウィスキー塾」の一部カリキュラム)。


マイブレンドウィスキー体験キット
手順は以下のとおり。
原酒5種
(フルーティ&リッチ、シェリー&スイート、
ピーティ&ソルティ、モルティ&ソフト、グレーン)を
スポイトで取り、mlをメスシリンダーで測りながら、
フラスコに入れ、混ぜる。
これをテイスティンググラスでテイスティングして、
好みのブレンドを見つけていくのだ。
20mlになるように調整しながらレシピを見つけたら、
これを10倍して、200mlの“マイボトル”を作る。


テイスティングはもちろん“竹鶴政孝スタイル”で。
竹鶴政孝はニッカの創業者であり、同時に初代マスタブレンダーだ。
グラスを手のひらでおおい、温めながら、
鼻へむけて筒状にすることで香りを集める。
鼻はひとつの穴で。たくさんテイスティングするときに
同時に2つの鼻の穴を使うと早く疲れる、というのが理由らしい。

ニッカウィスキーアンバサダー箕輪氏も
竹鶴政孝のひとつ穴スタイルで。


よし、この表にしたがって・・・。

“スコットランドは今も100位上の蒸溜所が稼働しているが、
日本は原酒の蒸溜所が少ないため、
ニッカではバラエティに富んだ
いくつものタイプを自前で作る”


試行錯誤の末、レシピが完成

200mlでつくって、この空き瓶に入れよう。


ドライヤーで圧着密閉
これをしないと飛行機に乗れない


オリジナルの一本が完成。
ちなみにタイトルは「雪と塩」
やさしく澄んだ香りと塩っぽさを強調してつくってみた

紙袋に入れて思い出に持って帰る。

上記は今回だけの「おまけ」体験だが、なかなか興味深かった。ウィスキーのブレンドなど体験することはないだろう。その気になれば自宅でもできるが、原酒にこだわってかなり高価になる割に成果があまり期待できないという趣味の真骨頂を味わうことになりそうだ。
もし興味がお有りなら、ニッカの仙台工場、宮城蒸溜所のマイウィスキー塾という本格ウィスキーづくり体験の一部として同じようなブレンドが体験できる。



蒸溜所内レストラン「樽」でいただくランチ。
北海道の幸など。
食中酒はニッカのお酒をハイボールで。


さて、「ウィスキー博物館」だ。かなりコンテンツが豊富で紹介しきれないが、特に興味深い点をいくつか挙げてみよう。


ポットスチル(蒸留器)の展示から始まる

樽の実物

熟成の神秘

樽にいれたばかりのウィスキー
透明だ

本物のウィスキーが入っているので、
香りを嗅ぐことができる

20年ぐらい熟成させると
樽の中のウィスキーは色づき、
半分が蒸発する
蒸発分を“天使の分け前”と呼んだりする
そりゃ長熟のウィスキーが高価なわけだ

博物館の中にはその場で原酒を飲めるバーがある

博物館内のバー


政孝が実際に使っていたパスポート

政孝(右)とリタ(左)の旅券。
旧字体が難しいが「日本帝国海外旅券」だろうか。

パスポート。若かりし頃の政孝。

有名な「竹鶴ノート」
今や1900年台はじめのスコットランドの蒸留の様子を知る
第一級の資料である
政孝は留学先の蒸溜所の様子を必死でメモしたという

“壽屋スコッチウィスキー醸造工場設計図面”
壽屋(ことぶきや)はサントリーの前身で、
これは今の「山崎蒸溜所」の設計図面だ。
竹鶴政孝は山崎蒸溜所の初代所長&マスターブレンダーでもあるので、
彼の死後、荷物を整理していた時にこれが見つかったという。
ニッカはサントリーに連絡して、
「山崎蒸溜所のものなのでそちらにお返しします」と言ったそうだが、
サントリーは「政孝さんのものなので、そちらで展示なさってください」と返事したそう。
そういういきさつで、今、余市蒸溜所に山崎蒸溜所の初期図面が展示されれている。
日本のウィスキー史に触れるエピソードだ。

政孝が受賞したメダル
日本のウィスキーのパイオニアに贈られた賞だ

これが政孝が世に放った「第1号ウイスキー」だ。
他にも歴史的ウィスキーの展示多数。

昔のCMも放映中

世界最大のウィスキー愛好家団体
「スコッチ・モルト・ウィスキー・ソサエティ」に
初めてリストアップされた日本の蒸溜所が余市蒸溜所だ。

以上、ウィスキー博物館のほんの数ポイントを挙げた。この余市のウィスキー博物館はすなわち、竹鶴政孝の歴史博物館であり、つまりジャパニーズ・ウィスキーの博物館といってもいいだろう。


おみやげコーナーも少しだけ紹介。

ショットグラス。
浮き彫りになっている絵が見やすいよう、
中に黒い布が入れられている。
これはポットスチル(蒸留器)の絵。

ヒゲのおじさん(ローリー卿)バージョン。

蒸溜所限定のボトルも売られている

興味深いおみやげと言えば、蒸溜所限定のボトルだろう。「原酒10年」あたりはよいおみやげと思うが、変わったものとして「ピーティ&ソルティ」などの「なんとか&なんとか」という名前のついた、ちょっと極端なテイストにしてあるボトルもある。これらに関しては好き好きだろう(一本だけ選ぶとしたら極端なやつはおすすめしない。バリエーションとしてならよいけれど)。


以上、私のとても濃い余市蒸溜所訪問は終わった。

余市駅に

ワンマン電車が滑り込み

夕日と共に余市を後にした

1~8までの余市蒸溜所訪問レポートを書けたことを嬉しく思う。同時に、その分量に対してどれだけのことをあなたにお伝えできたか、いぶかしく思う。ニッカウィスキーのご厚意(特に工場長の杉本氏、ずっと解説してくださった箕輪氏、小原氏)も感謝するし、これらのことをつくり上げた竹鶴政孝その人の偉大さに敬服する。

今回の旅は、ウィスキーがどのように作られるかという工場見学でもあり、そして工場見学以上のものであったと思う。竹鶴政孝の情熱に触れることができたと感じているからだ。
それは余市という北海道の町の凛とした空気の影響なのか、あるいは工場内でたびたび嗅いだあの麦の香りのせいなのか、あるいは、今も竹鶴政孝のやり方に影響を受け続けている蒸溜所の人々の姿に、物言わぬ説得力を感じたからなのか・・・私には定かではない。


以来私は、ウィスキーの香りをかぐたびに、これらのことを思い出さずにはいられなくなる。



~おわり









レポート:余市蒸溜所への訪問7 ~旧竹鶴邸編~

その6に続き、日本最北端のウィスキー工場、ニッカの余市蒸溜所への訪問をレポートする。
前回の「熟成編」で「ウィスキーづくり」の工場見学は終わっているのだが、ニッカのご厚意で、一般非公開の「旧竹鶴邸」を見せていただけたことに触れない訳にはいかない(玄関のみ一般公開)。ジャパニーズ・ウィスキーの父、マッサンこと竹鶴政孝の暮らした家には、彼の人柄や、哲学に触れる貴重なシーンがいくつもあったからだ。

ジャパニーズ・ウィスキーの父、竹鶴政孝が日本で成功した背景には、スコットランド人のリタの存在が不可欠である。彼らのラブストーリーなしには、日本のウィスキーは語ることができない。1920年に半ば駆け落ちで国際結婚したふたりの暮らしや志が、日本のウィスキーの歩みとも重なるのである。
政孝がスコットランドのローモンド湖畔を背景に、リタにプロポーズしたとき「君が望むならここに留まる覚悟だ」と伝えたが、リタはそれを辞して「あなたには大望があるはず。私達は日本に行くべき」と返した(当時、英国人であるリタのその決断は相当な勇気が必要だったに違いない)。もしもその時、リタが「ではここスコットランドで暮らしましょう」と言い、政孝もウィスキーづくりの夢を諦めていたら、今の日本のウィスキーはないのである。

今回は、ウィスキーづくりそのものではなく、日本にウィスキーをもたらした偉人、竹鶴政孝とその妻リタの素顔に迫りたいと思う。

一般公開部分の正面玄関

洋風な外観

正面玄関ではなく、勝手口からごめんください。

まずは台所から。日本語が全く話せなかった英国人のリタが、どのように日本に馴染もうとしていた(そしてしっかり馴染んでいた)のかがうかがえる。

台所(家事室)兼お手伝いさんのダイニング。
一部家電は新しいものに置き換えられているが単に雰囲気を出すための展示である
電子レンジの右上に見える窓はメインダイニングとつながっており、
今で言うカウンターキッチンのようなものだ。

この窓をスライドして、食事をメインダイニングへと渡す

テーブルの上に飾られた写真
真ん中の女性が竹鶴政孝の妻、リタその人
キャプションは下記の言葉。
「台所でのリタ。タクアン好きの政孝のために、
冬になると1年分のタクアン三百数十本を4斗樽、2斗樽に漬け込んだ。
ヌカと塩の按配も良く大変おいしいタクアンだったという。」

使い込まれたテーブル


貴重なツボ。中身は「梅干し」
以下はキャプション。

リタ婦人が漬けた梅干し
(1950~54年頃)
竹鶴威(※ブログ著者註釈:政孝とリタの長男)の回想録
「ニッカウヰスキーと私」より
『数年前、余市の実家で荷物の整理をしていたとき、
高さ30センチ位の壺が見つかった。
何が入っているのだろうと開けてみると
表面に塩の結晶ができた梅干しが少し残っていた。
リタおふくろが漬けたものだ。
おふくろが亡くなって(注)33年が経ち、
晩年は東京と余市を行き来していたので、
作る機会ははなく、
間違いなく40年以上も前のもので、まさに希少品。
私は幾つかをガラスビンに入れ、大切に持ち帰った。
(注)1961年1月 64歳で永眠』

政孝のためにおいしい梅干しをつくったリタを偲ぶ

窓の外は白い雪

メインダイニングに移ってきた

リビングのテーブル
テーブルの上には政孝がリタに贈った本が展示されている

H.G ウェルズの自伝的小説「KIPPS」(1905出版)を政孝がリタに贈っている
政孝の直筆メッセージは下記の通り
(政孝が“マッサン”と呼ばれていたことがわかる資料だ)

To
myown ever loving wife
Rita
from your Beloved
Husband
Massan

The day before you left Japan
31 Jan 1925

私の永遠に愛する妻 リタへ
君の愛する夫 マッサンより
君が日本を発つ前に 1925年1月31日




マッサンのクローゼット。コレはかなり貴重。
ほとんどメディアに登場したことがないのでは

生で見た感想は「よい生地だなぁ」ということ

当時の日本人にしてこのセンス

ツイードはスコットランド産だろうか

かなり良い状態のヴィンテージ生地
このヘリンボーンは手織りだろうか

この写真を撮った時、自分たちの生み出したウィスキーが
こんなにも世に受け入れられることを
本人たちは想像していただろうか

政孝の居室(和室)

竹と鶴の掛け軸。苗字「竹鶴」にかけた遊び心。

政孝の愛飲したスーパーニッカ
毎日飲んでいたらしい

畳縁をよく見ると、おや、縦は竹・・・それから横は、鶴?
どうやら特注らしい。政孝はこだわり派の粋人である。

政孝の和室の畳縁の「竹」

政孝の和室の畳縁の「鶴」

政孝の居室から外を見る

北海道の厳しい寒さ対策。
寝るときにこれで冷気を遮断していたらしい。
工夫の人。




リタさんが亡くなってから、出不精の政孝は
居室の「ふすまを開けたらすぐトイレ」を作ってしまったらしい
(存命中はリタさんに怒られるから作らなかった)
ぶっ飛んでいるところもあったようだ

月似明(明るさ月に似たり) ・・・出典不明

竹鶴政孝の写真。
竹鶴邸は西洋風で土足が基本であったとのキャプション



リビングのローテーブル

欄間にも鶴が

リタが弾いたピアノ(本物。当時のまま)

これは・・・楽譜の裏の落書き

ピアノの前のリタの写真
以下はキャプション

ピアノを弾くリタ
日本に来た頃、しばらく大阪の私立中学で英語教師をしていたが、
得意のピアノも教えていた。余市に来てからもレッスンはかかさず、
この家からピアノの響きがなくなることはなかった。

竹鶴がニッカを創業するずっと前から、
リタは英語やピアノを教えて家計を支えたという。
当時、そういった習い事のニーズがあったのは上流階級だったので
後のニッカの出資者もその縁で出会うことができた。
ピアノはリタがマッサンを支えた証拠のひとつなのだ。

いかがだっただろうか。なんにつけ“こだわり派”で粋人の竹鶴政孝と、それを支えた愛情深いリタとの暮らしぶりを少し垣間見ることができたのではないだろうか。
この余市蒸溜所への訪問シリーズも、本編をもって終了する。あなたが余市蒸溜所へ行くことがなかったとしても、日本のウィスキーの父がどのような人であったのか、余市ではどのようにウィスキーが作られているのか、参考になれば幸いである。

また、これを見て、実際に北海道の余市蒸溜所へ訪問する方もいらっしゃるだろう。本ブログでは一般非公開も含めてご紹介したが、一般公開の部分もすべてを掲載できているわけではなく、無論、その香りや熱などの情報は現地でしか伝わりようのないものだ。なにより、竹鶴がウィスキーづくりを夢見て辿り着いた北海道余市の「空気」を胸いっぱいに吸い込むのは、ウィスキーに対する感性を豊かにしてくれる体験であると断言できる。


今宵も、よいウィスキー体験を。


※尚、大変好評につき、おまけ編「マイウィスキー・博物館・旅の終わり」編を近日UPします。